2023年12月6日 …更新



My Lifework (2)

2023年12月6日…更新



1995年、二度目の3年生として再び大学に通い始めた頃のこと・・・。

昨年まで下級生だった方々との 新しい日常が始まりました。


神輿の修繕は依然として手付かずのままでしたが、この時期の私は
絵筆を持って人物や車などを描くことに夢中でした。


創作のテーマや こだわりのモチーフなどは無く、いかにして
「上手く描けるか」ということばかりを追究していました。


もし あの時、そのまま それを続けていたなら 私はきっと
イラストレーターを目指していたのかもしれません。



ここで少しだけ創作についての話題に触れたいと思います。



復学して間もない頃、私は学内で その後の創作活動の行方を左右する友人と出会います。

私のデザインとアートに対しての向き合い方を 根底の部分から修正してくれた方々であり、
自身の創作の源泉を辿るとするならば 必ずこの方々との出会いにまで遡ります。




一人は、いつも大学の図書館に入り浸っては積極的にデザインの知識やセンスを磨く努力家でした。

私が何かを制作するとき、今でも「彼に見せても恥ずかしくないか?」と自問自答をしてしまう…
そういう存在です。

そんな彼は、3年生の時すでに 優れた師匠のもとで本物のデザインの現場で仕事をしており、
私も度々誘われて プレゼンテーションに参加したり、お手伝いをしていました。


在学中、その師弟の二人が ニューヨークADCの金賞を受賞する という偉業を成し遂げます。
私も傍らにおりましたので、その時の経験と体感は一生忘れらないものとなりました。



卒業時には そんな彼と共に計画を練って、デザイン学科と
美術学科の中から12人の有志を募り 展覧会を開催しました。


右の画像は その時の告知ポスターです。
デザインは金賞の彼で、私が描いた絵を大きく扱ってくれました。


このポスターの制作には一切の妥協はせず、印刷は凸版印刷株式会社
によるオフセット印刷で、紙はヴァンヌーボーという最高級紙。

こだわりを貫きたい私たちは 印刷工場まで行って何度も工場長と
交渉をしたことも 学生時代の貴重な経験となりました。





そして もう一人は、美術学科の学生で「抽象画」を墨汁で豪快に描き、「老子」を愛読し、
"侘び・寂び" や古典を好む…、常に何かを学び掴もうと必死に実践を重ね続ける勉強家でした。


私はその頃、精密に写真のような絵ばかりを描いていましたから、抽象画という絵のジャンルには
まったく無縁でした。

でも、初めて墨による抽象画の作品を見た時、「すごい、格好いい!」と同時に
「なぜ そう感じるんだろう?」と思いました。


「なになに? 老子? 墨子? 聞いた事はあるけど・・・。」


いろいろ教えてくれたり 薦めてくれるのですが、依然として工作&お絵描き少年のままだった私は
この友人から異次元の世界を見せられたような衝撃を受けて、異様なほどに焦った覚えがあります。


その時の私は 自宅で やや大きめの50号くらいのキャンバスに 車の絵を描いていて、
完成まであと数日というところまで進んでいました。

けれども、友人の墨で描かれた抽象画と 老子の話を思い出すと、途端に絵を描くことが
面白くなくなってしまいました。



 これは自分が本当に描きたい絵なのだろうか?


新しい学年で仲良くなった友人は、休み呆けていた私にとって かなり強烈で刺激的な存在でした。



ただ、私も負けてはいられない! と すぐに頭を切り替えます。

まずはできる事からと思い、小さなスケッチブックにフェルトペンを使い、
ひたすら ○×△□乀丿… 〰 をたくさん描くなどして 抽象的な絵に果敢にチャレンジしました。

本来の抽象画とは言えませんが、この時から私の画風が一気に変わりました。


      



      左の絵は、通学の電車の中で描いた スケッチブックの一枚です。
      "楽器に触れる手" を描きました。

      右の写真は、卒業制作展(1997年2月)で展示した作品です。
      タイトルは "さかなの真実" と "Bubble Man" です。





ある時この友人が、私に言いました。

 「料理家になるっていうのは どう?」


悪意をまったく感じさせずに軽く発したこの言葉こそが、私の創作活動の核心部分を
短期間で変えさせ、本気にさせてくれた… と思っています。




このような出会いや経験をしながら ようやく大学を卒業し、その1年後に
私はアートを学ぶために アメリカ・ニューヨークへ行きました。



一方、我が家に残された神輿は、その後 父が一人で連夜の作業を地道に続けて
見事 立派に修復されました。

完成してしばらくの間は、酒屋のメインショーウィンドウに飾っていたそうで、
父がその様子を写真に撮って ニューヨークにいる私に送ってくれました。

復活した神輿は 2000年に地元神社に奉納され、秋の例大祭でお披露目された後に
氏子総出で担がれたそうです。


結局、私は神輿の側で過ごしていただけで、何もしていなかった・・・というわけです。

神輿を「持ち帰って、修復して、返却」したのは すべて父であり、
その心意気や信念、責任感と行動力を示してくれた父を、私は尊敬します。




 続く・・・ (準備中)


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